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今年テニス界でスーパースター達の引退があった。
ソニー・エリクソン・オープン男子ではF・ゴンサレス(チリ)、全米オープンではA・ロディック(アメリカ)とK・クレイステルス(ベルギー)、バレンシア・オープンではJ・C・フェレーロ(スペイン)が現役生活に幕を閉じた。
昨日まで3日連続でロディックを特集しましたが、本日はフェレーロを特集。
クレーコーターと言えばG・クエルテン(ブラジル)、G・コリア(アルゼンチン)、G・ガウディオ(アルゼンチン)、R・ナダル(スペイン)などいるが、フェレーロを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
1998年にプロ転向したフェレーロは、1999年までに世界ランクを40位台まで急上昇させたことにより最優秀新人賞を獲得。まさに貴公子のような存在感だった。
2000年には全仏オープンに初出場し、いきなりベスト4進出。準決勝でクエルテンに挑戦したフェレーロは5-7, 6-4, 6-2, 4-6, 3-6のフルセットで敗れる。その年、クエルテンは全仏オープンのタイトルと獲得する。翌年の同大会でもフェレーロは2年連続となる準決勝でクエルテンに敗れる。
その後、着実に力をつけたフェレーロは、2002年の全仏オープンでコリア、ガウディオ、当時世界ランク4位のA・アガシ(アメリカ)、当時同2位のM・サフィン(ロシア)に勝利し、最高の状態でグランドスラム初の決勝進出を果たす。
決勝の相手は、世界ランク22位で同胞の先輩であるA・コスタ(スペイン)だった。
その決勝でフェレーロは本来の力を発揮できず、第2セットが終わった時点でわずか1ゲームしか奪えていなかった。第3セットからエンジンがかかったフェレーロはこのセットを奪い、セットカウント1-2とする。だが、コスタの粘り強い勢いを止めることができず、フェレーロは準優勝に終わってしまう。
同年、ATPワールド・ツアー・ファイナルに出場し、決勝進出を決める。決勝では当時世界ランク1位のL・ヒューイット(オーストラリア)に5-7, 5-7, 6-2, 6-2, 4-6のフルセットで敗れ、涙をのんだ。
2002年に悔しい思いをしたフェレーロは、翌年2003年に大きく飛躍することとなる。
その年のクレーコートシーズンに入るとモンテカルロ・マスターズ、バレンシア大会の2大会で優勝し、調子を上げた状態で全仏オープンへ出場する。
優勝候補の一人として注目されていたフェレーロは、安定感のあるストローク戦で相手を圧倒し、ベスト8進出を果たす。準々決勝ではジュニア時代からライバルだったゴンサレスに6-1, 3-6, 6-1, 5-7, 6-4のフルセットで勝利、4年連続となる準決勝の舞台へ進出。
その準決勝で待っていたのは、2002年全仏オープン決勝の再現となるコスタだった。この試合でフェレーロは、コスタの強烈にスピンをかけたショットと強靭なフットワークに押されるも、終始試合の主導権を握り、先輩コスタに勝利する。勝利の瞬間、両手人差し指を天に突き上げた。
2年連続で決勝を決めたフェレーロの相手は、ノーシードから勝ち上がってきたM・フェルケルク(オランダ)だった。フェルケルクは、ビッグサーブとミスを恐れな豪快なストロークを武器にR・シュトラー(ドイツ)、C・モーヤ(スペイン)、コリアなどの強豪を次々と倒し、快進撃を続けての決勝進出だった。
決勝でフェレーロは、その恐ろしい相手に試合の流れを与えなかった。フェルケルクの強烈なショットを幾度となく跳ね返し、フェレーロはマッチポイントを握る。そのポイントでは、最後フォアハンドのダウンザラインを決めゲームセット。悲願のグランドスラム初優勝を果たした。
同年フェレーロはハードコートでも力を発揮し、全米オープンではヒューイット、アガシの同大会歴代チャンピオンを下し、その年2度目となるグランドスラム決勝の舞台へ。決勝ではロディックの強烈なサーブと安定感のあるストローク戦に翻弄されストレートで敗れるも、全米オープン終了後に発表された世界ランキングでフェレーロは世界1位の座を手にし、2003年は最高の年となった。
しかし、2004年からフェレーロは徐々に調子を落とし始めることとなる。
【続きは12月3日(月)】
《「ロディック、ギルバートと手を組み栄冠◇第1弾 2012引退シリーズ その1」はこちら》
《「ロディックに「フェデラー」という壁が立ちはだかる◇第1弾 2012引退シリーズ その2」はこちら》
《「フェデラー最大の被害者となったロディック「自分がどう感じるかが重要」◇第1弾 2012引退シリーズ その3」はこちら》
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