杉山愛と組んで4位入賞を果たした
アテネオリンピック
2004年USオープンでは四大大会
自己最高のベスト8進出を決めた。
浅越しのぶは、遅咲きのテニスプレーヤーである。1976年兵庫県に生まれた浅越がテニスを始めたのは13歳。15,6歳の選手がツアーで活躍する女子テニス界の現状を考えると、13歳からのスタートというのは、それだけでプロへの道が半ば閉ざされているに等しい。しかし尊敬する伊達公子が学んだ名門園田学園へ進んだ浅越が、その才能を開花させるのにさほど時間はかからなかった。
94年に初めてITFサーキット大会に出場した浅越は、2年後の96年には3つのITFサーキットのタイトルを獲得。20歳でWTAツアーデビューを果たし、初年度はランキング157位でシーズンを終えたのだ。快進撃を続ける浅越だったが、トップ100の壁は思いのほか厚く、その後98年はITFで1つタイトルを取るにとどまり、99年も2つのITFタイトルとWTAでも2大会で2回戦進出するが、その他主だった成績を残せず、トップ100の壁を打破することが出来ずにいた。
しかし2000年、そんな浅越に転機が訪れる。それまで本戦入りするのも難しかったウィンブルドンで2回戦に進出し、続くUSオープンでも3回戦に進出する大活躍を見せたのだ。大舞台での活躍によりランキングを一気に72位へ大幅アップさせた浅越の勢いは、その後加速していくことになる。翌2001年にはグランドスラムに次ぐティア1の東レパンパシフィック・オープンでベスト8、オクラホマシティ大会でベスト4進出を果たし、世界にその名を知られるようになる。
2003年以降の浅越の軌跡を追ってみよう。
フェドカップでは、チームのムードメーカー
として日本代表を盛り上げた。
シュレボトニックとのダブルスでは数々の
好成績を残した。
2003年:
自身初となるツアー決勝進出、ウィンブルドン4回戦進出、ダブルスでも2つの大会で決勝に進出し、シングルス45位、ダブルス25位をマーク。
2004年:
タスマニアで自身2度目のツアーシングルス決勝進出、ダブルスでも3度目のツアー優勝を達成。全仏オープン単複ベスト16、杉山愛と組んだオリンピック・ダブルス4位、USオープンベスト8と怒涛の快進撃でランキングを36位へと上昇させる。
2005年:
ニュージーランドの大会で単複決勝進出、東レ・パンパシフィック・オープンでE・デメンティエワを破りベスト4進出、4月にはランキングを自己最高の21位までアップさせる。またダブルスでも全仏オープンベスト8、ジャパオープン準優勝をはじめ5大会でベスト4以上に進出。
アグレッシブな攻撃テニスは見る者
を夢中にさせた。
2006年:
絶好調で終えた2005年から一転、勝ち星を挙げられなくなる。シングルスの不調とは対照的に、ダブルスでは好成績を収め、優勝1回、準優勝1回、ベスト4(全豪オープンを含む)4回と安定した成績を残していく。5月にはダブルス世界ランキング13位を記録。ウィンブルドンでM・キリレンコを倒し再浮上するかに思われたが、その矢先の7月に突如現役引退を表明した。
電撃的な引退表明を受け、浅越にインタビューを試みた。以下はその内容。
・引退の理由は?:
「自分のイメージするプレーが出来なくなり、厳しいツアーを頑張って回ろうと言う気持ちがなくなってしまった。」
・引退を考えたのは?:
「今年2月になってから考え始めたが、それからも『このままで終わりたくない』と試行錯誤してプレーしてきた。でも、イメージどおりのプレーができず、またこれまでやってきたことへの達成感もあったので、引退を決めた。」
・全米を引退の場に選んだ理由は?:
「ベスト8に入るなど、一番成績の良かった大会なので、輝いていた場所で終わりにしたいと思った。」
(インタビューの続きは、WOWOW TENNIS ONLINEでご覧になれます)
努力の人、浅越が最後に選んだUSオープンがいよいよ来週スタートする。ファンは、浅越が「もっとも輝いていた場所」で有終の美を飾って欲しいと心から願っている。